ChaboのFF11日記+(跡地)

IfritサーバでFF11をやっていたChaborinの日記でした。

クリエイターへの批判について

ということで、昨日の記事の続き。

何がそんなに頭に来たかというと、単に自分が面白いと思ったものを批判されてるからというわけではないです。そうじゃなくて人が一生懸命作ったものを安易にクソゲーだとかいってボロクソに書く無神経さが許せない、という感じです。


ボロクソ系の論評のほとんどは、要するに他者に影響を与えたいからだと思います。決して、その作品をより良くしようとする動機じゃない。良くなろうが潰れようが関係なくて、ただそのプロセスに自分がちょっとでも関与したという快感しか求めてない。そうやって、自分のフィールドをちょっとでも大きくしたい。
それは、批評なんていう隠れ蓑に隠れた、単なるワガママ。


オレオレクリエイターになる必要はないし、クリエイターに感謝すべきだという押しつけもまたちょっとと思います。結局のところ、感謝するかどうかは個人の主観でしかないのだし、自分の方向性とぴたりと合ったものには自動的に感謝の心が沸きます。
それよりも、批評には意味のあるものと意味のないものとがあって、意味のない批評がそれなりの数存在するってことだと思います。


これもまた玉石的な話なのかもしれないけど、批判の大合唱の中に含まれている建設的な何かを見いだして、そこだけを抽出する。作り手としては、それだけで良いと思います。こういうのも、いわゆる「情報の取捨選択の技術」なのかもね。

追記

例えば「エスパー魔美 くたばれ評論家」に登場する言葉。

「公表された作品については、みる人ぜんぶが自由に批評する権利をもつ」
「どんなにこきおろされても、さまたげることはできないんだ」
「それがいやならだれにもみせないことだ」


ここまでハッキリと言い切れるクリエイターが、そうそういるだろうか。
幼少時から藤子作品を浴びる様に読み、観る事が出来た人間は幸いである。


この言葉を、現在のクリエイターもそのまま受け取るべきなのか。
S/N比が下がった現代の批評の世界では、見直すほうが良いのではないかと思うのです。「クリエイターの傲慢」で全てが片づくとは言い切れないような気がします。