ChaboのFF11日記+(跡地)

IfritサーバでFF11をやっていたChaborinの日記でした。

日本人はなぜオタクとなり得たか

http://www.itmedia.co.jp/lifestyle/articles/0503/07/news012.html

 オタクを卒業する時は、精神的に大人の域にまで成長した時である。しかしそれにかかかる時間を圧縮することは、難しい。むしろオタクはオタクのままで、その能力とエネルギーを社会の発展のために利用していく方法論が必要となる。

大人とは何か? そしてオタクとはそのままでは社会の発展に利用できないものなのか?
オタクの定義分析にテネオニー化の概念を持ってきた考えは、知っている限りでは初めてだと思う。と同時に、オタクのステレオタイプとして基本的によく結びつけられるアダルトチルドレンのほうについての分析が全く出てこないので、いまいち説得力に欠ける。

 さらに今後の課題として、経済的に余裕がありながらやりたいことが見つからないので働かないニートと、同じ条件でありながらやりたいこと、知りたいことがありすぎるオタクとの分岐点はどこなのか、社会学的にちゃんと洗い直すべきだろう。

オタクの行動力は目的に対するオールオアナッシング的な完璧主義に起因すると思う。
これが、「オール」側に振れると行動的になり、「ナッシング」的にふれると全くなにもしなくなる。中途半端がないバランス感覚の欠如、これこそがアダルトチルドレンの特徴の一つでもある。


ニートには知りたいこと、やりたいことがないわけではない。
その「やりたいこと」が仕事ではない、というただ1点の理由にすぎない。
やりたいことが見つからないのではなく、やりたい仕事がないだけなのだ。


http://yaplog.jp/himeno/archive/140

●完璧主義
オール・オア・ナッシング的な考え方で、「全ての準備」 や「成功への約束」が整わないと、“何もしない完璧主義者”になり易い。
●パワーゲーム思考
人間関係を「勝ち・負け」の尺度で見てしまう。しかも多くの場合、自分が「負け」側になっている。

こんなところも関係してくるだろう。
かの有名なニート*1の言った「今の自分は勝っていると思う」発言は、まさにこのパワーゲーム思考から来ているわけですねぇ。


ここに興味深い指摘がある:

 わが国の家族も、伝統的に「抑圧家族」が多い。日本の家族は真面目や几帳面を尊び、感情を表に出さないことを重んじてきました。大人は子どもに、真面目で几帳面、そして「良い子」であることを演じることをそれとなく望んできました。さらにそのような家族では、その真面目さや几帳面さはむしろ陽性に評価され、まったく陰性の側面があることが意識されてきませんでした。
 時代的に見るならば、戦後の高度成長下の消費社会では、学業という形で子どもたちに「完璧主義」を要求し、さらに抑圧を加えてきた「抑圧家族」が多い。確かに、「完璧主義」は消費社会でサバイバー(生き残り)になるために、親たちが子どもに教えた社会的スキルでありましたが、それは、教育という名前を借りたミラーの言うところの「魂の殺人」そのものであった。不登校はさまざまな原因で起こるが、進学中学校や進学高校での不登校生徒のなかに、明らかに、親が子どもを、教育の名のもとに抑圧する、「抑圧家族」の不登校生徒がいます。
 それら近代日本の「抑圧家族」は、数多くのアダルトチルドレンを生み出しました。他人と親密な関係を持てず、孤独感や空虚感を肌で感じ、ひたすら他人からの称賛を求めて自己卑下をして生きていくアダルトチルドレンを量産したのです。

(「アダルトチルドレン共依存緒方明, 誠信書房, 1996 isbn:4414429110


ということは・・・ この伝統的に多い「抑圧家族」の出処ってどこになる!?