ChaboのFF11日記+(跡地)

IfritサーバでFF11をやっていたChaborinの日記でした。

遂にやってきてしまった情報の氾濫と取捨選択の時代

元ネタはHotWiredのこの記事。
http://blog.goo.ne.jp/hwj-sasaki/e/1e4a7c59538a01659983ad62dd050a02


この記事が示すものは、記者の感想はどうあれ、いわゆるネット市民(既に死語になりつつあるネチズン)言論の台頭を意味する。
古くはパソコン通信と呼ばれていた時代からのコンピュータ少年は、現在30になったくらいだ。つまり、あと20年でこういったプロセス公開のことを「気持ち悪い」とされる時代は終焉を迎え、オフライン環境で情報をコントロールしようとすること自体が、「気持ち悪い」とされる側に回る。
もはや扇情的な情報に意味はなく、賤しくも人々に情報を啓蒙せんとする意識自体にパラダイムシフトが起こるだろう。そこには、もはや情報の伝道者たる旧来のマスコミの姿はないのである。
現在は単なる過渡期にすぎない。


と、マッドサイエンティスト調に言ってみる。
でもってついでにさらにマッドに暴走してみる。


Internetの登場前後での情報提供とは、いわゆるナレッジベース的な部分が大きかった。その道のスペシャリストが自分の持つ情報を容易に伝達することができる。これがInternetの強みだった。
yahoo!の出現がそれに拍車をかけ、ウェブにふさわしい情報網が構築されていったのである。


しかし今は違う。「匿名掲示板」というアンダーグラウンドが表に出てきてしまった日本では、本来Internetが持っていた実名掲載と情報に対する責任の持ちようを根本から変えてしまった。つまり、性善説で構成されていたInternetが、数年のうちに一気に性悪説に取って代わられてしまったのである。
確かに本音の応酬は、日本人が持っていた「空気嫁」といった美徳をうまく確保しつつ、実は心の底で思っていたことを白日の下に晒すことに成功した。しかし、同時に匿名集団心理を生み出し、本来Internetが持っているはずの「少数の人々の意見の尊重」というメリットを簡単に封殺してしまった。結果、壊れたスピーカーのように、自分が正義であるとがなりたてる論争が各地で起きることになる。


結果として、私たちネットワークで生きる人間には、情報の取捨選択の意識が芽生えることになる。どれが正しくて、どれが正しくないのか、自分はどう思うのかというのが今以上に重要になるということだ。
そしてそれは、そのままオフラインメディアであるマスコミ情報にも適用されることになる。
その結果、何が起こるかは明白だろう。


もはやマスコミは、情報の伝道師たる地位を失いつつあるということだ。


そしてそのことを理解できない人間は、時間という抗えない流れによって徐々に駆逐されていく。


私は10年後、この記事が「歴史は繰り返す」という格好の事例になることを信じて疑わないのである。まる。


あー、たまにこういう文章書くと気持ち悪くなってくる・・・TT


追伸。
例えば裁判。
公開されてはいるけれどなかなか見ることができなかったその審議過程は、今までは新聞や週刊誌の「抜粋」というバイアスがかかった記事でしか見ることができなかったが、今ではもっと詳細にまるわかりになるので、個々人が裁判そのものに対する批評を高い精度で加えることができるようになっている。
こうなるともう、権力との戦いだのって話でもない。そんなことしなくても、そういうことに長けた人間が多数を占めるようになるのも時間の問題だ。日本人はそんなに馬鹿じゃない。
むしろ、右にしても左にしても、急進的にいろいろ声高に叫んでるほうが怖い。あーこわこわ。